子供たちにいかに適度な無理をさせるか
よくお母さん方に「うちの子は、どうも勉強の仕方が分かっていないようなので、上手な勉強の仕方を教えてやってください」と頼まれます。そのようなときには、「上手い勉強の仕方などありません。へたでもよいから教師に指示されたことをガムシャラにやるしかありません」と答えることにしています。
というのは、どんなに勉強のできる生徒でも、はじめから上手な勉強の仕方が身についていたわけではなく、自分なりに苦労して試行錯誤的にいろいろやってみてはじめて、要領のよい勉強の仕方を身につけたのだからです。お母さん方にしてみれば、あまり子供に苦労させずに勉強ができる子にしたいという親心から上記のような質問をされるのでしょうが、無理をしなければ能力は伸びないのです。
つまり、「可愛い子には旅をさせよ」というわけです。しかし、過度な無理を強いても子供は結局ついてこれませんから、親や教師など子供を指導する立場のものが気をつけるべきことは、 子供たちにいかに適度な無理をさせるか、ということになります。
発達の最近接領域説
それでは、少し無理をさせるためにはどうすればよいのでしょうか。もちろん教師が生徒の立場を理解して親身になって、熱心に指導することが大前提ですが、その指導する内容が適度なのか過度なのかはどうやって見分けたらよいのでしょうか。
教育の問題としてこのことを理論化したのはロシアの心理学者ヴィゴツキーです。彼の説は、発達の最近接領域説というのですが、それをここでとりあげてみましょう。
ヴィゴツキーは言います。
「教育は、それが発達の前を進むときにのみよい教育である。そのとき教育は発達の最近接領域によこたわる一連の機能をよびおこし、活動させる。」
発達の最近接領域などというとむずかしそうですが、要するにそれは、子供の、次に発達すべき能力のことです。まだその能力は現実のものとはなっていませんが、いつでも成熟すべく準備ができている、そういう能力の領域のことなのです。
たとえば、算数で計算問題がしっかりできるようになったら、その子供にとっては基礎的な応用問題こそが、次に発達すべく準備されている領域だということになります。ということは、また『教育は、子供の発達の昨日(すでにできること)にではなく、明日(準備はできているが、まだできないこと)に目を向けなければならない」ということでもあるわけです。
教師の役割
すると、教師の役割は、子供の発達の最近接領域を見きわめ、その領域を発達させようと努力することだ、ということになります。Gritではそのような考えに立って、教師の四原則の一に、「生徒の成長の段階を自覚して順をおって練習させる」と決めています。
たしかに、発達の最近接領域は発達すべく準備はできている領域ですが、まだ現実の能力にはなっていない領域ですから、子供にとってその能力を身につけることは簡単なことではありません。努力しなければ能力は高まらないのです。少しは無理をしなければならないのです。
しかし、それは発達すべくすでに準備ができている領域なのですから、それに取り組むことは、生徒にとって、たいへんではあるが、本来、楽しいことであり、やる気がすることでもあります。なぜなら、それは、生徒が自分の可能性を試し、それを自分のものにしていく過程であって、自分が発達しているのだという充実感を伴うことだからです。
こうして、今までできなかったことができるようになるという充実感を伴った経験を何回も積み重ねていくと、それまであまり楽しくなかった勉強がだんだんおもしろくなっていきます。そうして、ここまでくると生徒たちは自然に勉強の仕方も自分で工夫するようになります。すると、だんだんにその生徒なりの勉強の仕方が身についてくることになるのです。
教師は子供の発達の段階を自覚せよ
というわけで、教師は生徒の発達の最近接領域を見きわめなければならないのですが、それは決して容易なことではありません。われわれは、小学生の感性的思考の段階から、中学生では抽象的・論理的思考の段階へと発達すると考えていますが、このような発達の大きな流れをつかんだ上で、それぞれの教科、それぞれの学年、そしてそれぞれのクラスによって具体的に考えなければならないからです。
もし、生徒の発達の段階に合わないことを強引にやらせようとしても、生徒の本当のやる気が伴わないので、学力的に大きな伸びは期待できません。したがって、教師の方も自己研修を怠らず努力しなければなりません。もちろん生徒諸君にも少しは無理をしてもらおうと思います。努力しなければ充実感も味わえず、能力も高まらないのですから。